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旧国鉄久大線を走る蒸気機関車(SL)の点検、格納庫として1934年に完成。鉄筋コンクリート造りで、SLの向きを変える円形の転車台を中心に扇を広げた形をしており、当時最高の技術を用いて建築された。 
車庫は久大線が全線開通とともに業務を始め、広さは1734平方メートル。最盛期の23年には蒸気機関車25両の修理が行われ、250人の職員がいた。機関車は60―70キロごとに石炭や水の補給基地が必要で、久大線では豊後森が補給基地の機関区に選ばれた。戦時中は軍事輸送の拠点となったため、米軍の攻撃目標にされ、壁面には機銃掃射の弾痕が残っている。


原形のまま残る機関庫としては九州唯一、全国的にも14年に造られた京都の梅小路機関庫とここのみで、その規模から鉄道遺産としてあらためて注目されている。老朽化のため車庫の内部は立ち入り禁止。

 

 

 


大分合同新聞の動画サイト!oitatv.comに載りました!!

[玖珠新聞]「機関庫弁当」いかが? 改良重ねて将来駅弁に 地域新聞 oitatv.com

動画はこちらへ


★★★投稿写真★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

秋好久さんは、国鉄蒸気機関車の運転手でした。今回、豊後森機関庫の当時の写真を提供してくれました。往年の機関庫や機関区運転室の写真を公開します。

写真 秋好久氏

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

 

豊後森機関庫

近代化産業遺産 豊後森機関庫 保存、活用策 官民にズレ / 西日本新聞:

旧国鉄豊後森機関庫(玖珠町帆足)の保存、活用をめぐり玖珠町と町民の意見が分かれている。町民側は26日に「豊後森機関庫活用推進協議会」を発足させ、傷みの激しい機関庫の一刻も早い改修などを議論する。

 

 


豊後森機関庫現地調査の結果報告

豊後森機関庫は建設されてから75年が経過し、しかも40年以上も放置されてきた。老朽化が進み、だれの目からも「今にも壊れそうな建物」と見られていた。私たちも本体を活用することは無理であり危険だと考え、モニュメント的な保存しか念頭になかった。
しかし、今回の調査の結果、柱のコンクリートは十分な強度を有していることが判明し、正式な耐震診断を行う必要はあるが、昭和50年の大分県中部地震など数度の地震を経ているものの、柱や壁にはせん断クラックは見られなかった。このことから、扇形の特性も考慮すれば中程度の地震で直ちに崩壊するようなことは考えられず、本体の利用も十分可能であると言える。現に豊後森機関庫と同時期に建設された同じ扇形機関庫である京都の梅小路機関庫と岡山の津山機関庫は特段の耐震補強を行うことなく今も機関庫として活躍している。
活用の例としては次のようなものが考えられる。


1)三島公園にある蒸気機関車「クロちゃん」を移設、宮原線で活躍し今は門司にあるディージェル機関車「キハ07」を譲り受け、鉄道博物館として整備する。外部は公園として整備し、ミニSL機関車用のレールを設け、機関庫を発着駅とし、ミニSLマニアが利用できるようにする。そこには子供連れの家族が集まりにぎわいがよみがえる。もちろん転車台も動くようにする。
(ミニSL広場の実例は愛知県刈谷市の「フローランスガーデンさよみ」がある。)


2)大空間の屋内施設であることを活用した展示会や集会、コンサートを行う多目的イベントホール「(仮称)豊後森機関庫メッセ」として、広く町民、県民に開放する。もちろん「日本童話祭」の会場とする。 
活用方法については多くの方々を巻き込んで議論を行って決めることが必要であり、そのことにより豊後森機関庫をこれまで以上に町民から愛され、利用される施設にすることができる。

機関庫の保存・活用を議論する時、まず問題になるのが費用の点である。老朽化し痛んだ建物を保存し使えるようにするには莫大な費用がかかり無駄だとの意見が必ず出る。しかし、この意見は漠然としたもので、根拠のあるものではなかったと思う。
私たちは、今回の調査を基に概算ではあるが改修費用を算定した。


①屋上防水改修工事   2,625万円(ほぼ実際の工事費と考えて良い)
②躯体保護工事    約3,000万円
③窓枠ガラス・土間改修、電気・衛生設備その他工事   6千万円程度

 

以上、耐震改修の必要の有無は残るものの、私たちは1億2千万円程度で利用可能な建築物に改修できると試算しており、建築の専門家集団として確信を持っている。これは、新たに博物館や多目的ホールを建設する費用に比較すれば大幅に小さい数字であり、豊後森機関庫を保存・活用することは経費の面からも妥当性があると言える。

 

玖珠町には目玉となる集客施設はなく、玖珠町のシンボル的施設を創り育てていく必要がある。私たちはそれが豊後森機関庫であると考えている。そして、隣の九重町の「夢大吊り橋」、湯布院、黒川と面的で回遊可能な整備を行う必要があると考えており、今回の現地調査とこの報告書が豊後森機関庫の保存・活用につながり、さらに玖珠町全体の活性化につながることを切に願っている。

 

最後に今回の調査にボランティアで参加して頂いた建築士会玖珠支部、県玖珠土木事務所、大分県防水工事業協同組合、大分県外壁改修工事業協同組合、豊後森機関庫保存委員会、地元自治会・商工会、国鉄OBのみなさま、また調査の様子を詳細に報道をして頂いたテレビ・新聞社の方々に感謝いたします。


2009年10月  豊後森機関庫現地調査実行委員会
(作成責任者)
豊後森機関庫現地調査実行委員会 事務局長 岩田 政勝
(大分県玖珠土木事務所 総務課 建築住宅班)

 

平成21年10月18日(日曜日) 第七回機関庫まつり

 

 


第七回機関庫まつり写真集-1

写真 佐藤公宣氏  居酒屋くらや

 

 


第七回機関庫まつり写真集-2

 

写真 佐藤公宣氏 居酒屋くらや

 

 


 

第七回機関庫まつり写真集-3

 

 

 

 

 


豊後森機関庫

尾方委員長(右端)ら主催団体の代表ら=玖珠町岩室、くすまちメルサンホール

玖珠活性化へ 豊後森機関庫の調査報告 【朝刊】-10/16 10:00

町内外から約50人が参加。主催者の尾方委員長、須賀文広県建築士会玖珠支部長、河野博文同機関庫保存委員会長が「6月15日に機関庫の劣化状況を専門家 の協力で詳しく調査し、報告書がまとまった。これをどのように生かして玖珠町の活性化につなげられるかを話し合っていただきたい」などとあいさつ。岩田政 勝実行委事務局長が報告書の内容を説明した。

(大分合同新聞記事より抜粋)

 

 

豊後森機関庫
出来上がった報告書などを手に町民らに報告会への参加を呼び掛ける調査実行委のメンバー=大分合同新聞玖珠支局  再利用は可能 玖珠町の豊後森機関庫 【朝刊大分合同新聞】-10/10 09:28 


豊後森機関庫現地調査報告会開催のお知らせ

 

皆様におかれましてはご健勝でご活躍のことと存じます。
さて、去る6月15日に皆様のご協力により行いました豊後森機関庫現地調査の結果がまとまり、報告書が完成いたしました。


ご協力いただいた方々および機関庫の保存を待ち望んでいる方々に調査結果の報告と改修計画(提案)のご説明を行い、あわせて、皆様から機関庫の活用についてのご意見をお伺いし、今後の保存運動の推進に繋げて参りたいと考えております。


つきましては、下記のとおり報告会を開催しますので、お忙しい時期とは思いますが、たくさんの方々のご参加をお願いします。

豊後森機関庫現地調査実行委員会

大分県建築士会玖珠支部

豊後森機関庫保存委員会


豊後森機関庫現地調査報告会
日時 平成21年10月12日(月)13:30~15:30
場所 玖珠町メルサンホール視聴覚室

会 次 第

司会 梅木恵美

 

日時

平成21年10月12日(月曜日) 13:30~15:30

場所

玖珠町 メルサンホール視聴覚室

内容

調査結果報告

改修計画(提案)説明

機関庫活用意見交換


(問合せ先) 
大分県玖珠土木事務所 建築住宅班 岩田
(豊後森機関庫現地調査実施委員会 事務局長)
TEL 0973-72-1152

 

 


今回、無事に豊後森機関庫の現地調査を終えることができました。

調査報告書は、後日、こちらのホームページでも紹介し公開する予定です。

 

玖珠土木事務所総務課建築住宅班の岩田主幹(写真左)

大分県建築士会玖珠支部の菅会長(写真右)

大分合同新聞参照記事

撮影2009.6.15月曜日

 

 


豊後森機関庫保存の取り組み -地元有志を中心にした保存運動-

大分県玖珠土木事務所 岩田 政勝

【豊後森機関庫とは】

みなさん、玖珠郡玖珠町のJR豊後森駅構内に、独特な形をした古い鉄筋コンクリートの建物があるのをご存じでしょうか。この建物は昭和9年に建設され、蒸気機関車からディーゼル機関車へ切り替わる昭和46年まで使われていた豊後森機関庫です。

 

豊後森機関庫は久留米と大分を結ぶ久大本線の中間にあり、蒸気機関車を動かすのに不可欠な石炭と水を補給し、さらに機関車の点検や修理を行う中継基地として、最盛期の昭和23年頃には250人を超える従業員が働いていました。しかし、昭和46年に久大本線で全ての蒸気機関車がディーゼル機関車に置き換わったのを機に、この豊後森機関庫は廃止になり、以後40年近く放置されて来ています。

 

豊後森機関庫は扇形の機関庫であり、京都の梅小路機関庫、岡山の津山機関庫と全国でも数カ所しか現存しておらず、九州では唯一現存している機関庫です。また、敷地内には機関車を回転させ、向きを変える転車台も残されています。このように豊後森機関庫は日本に現存する数少ない扇形機関庫として貴重な鉄道遺産です。

 

さらに戦時中には軍事輸送の拠点となっていたために米軍戦闘機の機銃掃射を受け、3名の方が亡くなられています。今でも外壁面には機銃掃射の弾痕が幾つも残っており、その点で、「豊後森機関庫は戦争遺産」と言う人もたくさんいます。

 

豊後森機関庫

長年の風雨に耐え、ひっそりたたずむ豊後森機関庫


【住民主体の保存運動】

昭和62年に国鉄が民営化され、それまで国鉄が所有していた土地や建物が次々に売却されていきました。鳥栖にあった機関庫も解体され跡地は売却されています。豊後森機関庫の敷地は幸か不幸か周辺は田んぼで道路に接していなかったためにJR九州も売るに売れず、最後まで残されていました。しかし、平成12年ごろに豊後森機関庫を処分するとの話が聞かれるようになり、それまで生き延びてきた豊後森機関庫も解体の危機に直面することとなりました。

 

豊後森機関庫が使われなくなってから、保存の必要性を訴える声は幾度となく起こってはいましたが、解体の危機に直面したことから、写真家の野村氏や建築家の尾方氏など地元有志数名が平成13年9月に第一回発起人会を開催し、建設会社経営の河野氏を会長に選出し、各団体等にも声をかけ、19名の発起人により保存運動が開始されました。私もたまたま当時も玖珠土木事務所に勤務していたことから、発起人の一人として名を連ねさせていただきました。

 

まず最初に国の登録有形文化財への登録を目指した「一万人の署名運動」に取り組むことにし、11月16日が豊後森機関庫落成日であることから、この日に玖珠町のメルサンホールで保存準備大会を開催し、多くの町民・各団体に運動の主旨を説明し、署名活動が開始されました。

 

署名活動は豊後森駅前や大分市中心部での街頭署名活動、さらにマスコミ報道やインターネットで知った全国の方々から署名が寄せられ、平成14年2月16日での集計では目標を大きく上回る22,437名もの数になりました。

 

3月20日に保存委員会役員11名が玖珠町長に署名簿を手渡し、「鉄道遺産として国登録有形文化財になるよう、所有者のJR九州と早急に協議してほしい」と要請しました。これに対し、当時の小林玖珠町長は「今後は保存委員会と一緒になり、文化財として保存するためにはどうすればよいか積極的に検討していきたい」との返答がありました。保存委員会は翌21日には玖珠町議会にも同様の要請をしました。

豊後森機関庫

保存に向けての運動は各団体を巻き込んでの運動に発展していき、保存委員会の活動と平行して、各団体が次のような独自の取り組みを行っています。


●機関庫の清掃および機関車クロちゃんの塗装塗り替え(豊の国21世紀塾、国鉄OB会、  保存委員会)
●機関庫スケッチ大会(玖珠ライオンズクラブ)
●機関庫まつり(玖珠町商工会青年部)
●機関庫花見(玖珠町商工会中央支部)
●機関庫の図面作成のための現地調査(建築士会玖珠支部、玖珠土木事務所)
●大分大学の学生にる機関庫夢作品展(大分大学)
●その他(コンサート、鉄道ファンの視察)

保存委員会は玖珠町の街づくり助成金(200万円)を利用し、「子どもと夢を!機関庫保存でまちおこし」をキャッチフレーズに、国鉄久大本線開通当時のにぎわいや全盛期の機関庫の様子、廃墟と化した建物の現況までをそれぞれ貴重な写真や8㍉映像で構成し、「まんが日本昔ばなし」で有名な俳優常田富士男さんの語りを盛り込んだ自主制作映画「機関庫物語、時代(とき)の移ろい」を制作しました。

 

そして、保存委員会結成1周年記念事業として平成14年11月16日にメルサンホールで機関庫シンポジウムを開催し、機関庫物語の上映と常田富士男さんの講演会、自主映画の音楽を担当していただいた音楽家川岸宏吉さんのコンサートをおこないました。なお、常田さんや川岸さんも保存運動に大変共鳴していただき、ボランティアで協力していただきました。

俳優の常田さんと音楽家の川岸さんを囲んでの記念撮影

その他、保存委員会では次のような活動を行っています。
●募金活動、委員会メンバーを中心とした街頭募金や専門誌への広告掲載による全国の鉄道ファンや国鉄OBにも呼びかけての募金活動
●機関庫のイラスト入りTシャツと名刺台紙の販売
●機関庫キャラクターを全国に募集
●豊後森機関庫案内板の設置


街頭募金を呼びかける保存委員会のメンバー

 

地元有志が中心となった豊後森機関庫保存運動は玖珠町、JR九州、県を動かすこととなりました。それまで、町議会で「JR九州には申し入れている」との答弁に終始していた町から平成15年9月の町議会で「JR九州と土地、建物の譲渡について協議を始め、JR九州も理解して頂いている」との町長からの答弁がありました。

 

その年にはJR九州の石原社長をはじめJR九州の関係者が豊後森機関庫を初めて訪れ、町長や保存委員会メンバーが案内役を務め、町民の望みを伝えました。また、数日後には広瀬知事も視察に訪れ、「当時のままの姿で残っているのは素晴らしい。JR九州に協力してもらい保存してもらいたい」とコメントしています。

 

そして、保存運動は実を結び平成19年に豊後森機関庫とその土地1.2㌶の所有はJR九州から玖珠町に移り、さらに平成21年2月には経済産業省の近代化産業遺産に登録されました。

【豊後森機関庫現地調査の実施】
平成13年からの保存運動により、所有がJR九州から玖珠町に移り、さらに、近代化産業遺産に登録されたこと(ソフト的保存の前進)により、解体の危機は遠のいたものの、活用計画や整備計画はこれからといった状況であり、そのため、当分の間はこれまでと同様に放置され、さらに劣化が進行していくことに変わりはありません。したがって、利活用の議論はこれからとしても、まず、劣化の進行を止め、現状の維持を図ること(ハード的保存の必要性)が急務です。

 

そこで、豊後森機関庫保存委員会と建築士会玖珠支部および県玖珠土木事務所では雨漏りの防止方法、外壁の劣化防止方法およびその費用等を検討するため、建築物の改修の専門団体である大分県防水工事業協同組合と大分県外壁改修工事業協同組合の協力を得て、現地調査を平成21年5月11日と6月15日に行いました。

 

参加者は調査の実務を担う両協同組合と建築士会員等合わせて約35名、その他保存委員会や地元商店街の方々で総計50名を超える方々が参加し、高所作業車3台を動員し、屋上や外壁の上部、天井など全てを一日で調査することができました。
また、地元テレビ局や新聞社などのマスコミもたくさん取材して頂き、NHK福岡放送局が上空からヘリコプターで全国に生中継して頂きました。

柱を調査する調査員                        高所作業車を使って天井の調査


(今後の取り組み)
保存委員会の今後の具体的な取り組みとしては
① 調査報告書を作成し、2009年6月時点での状態を後世に残す。
②  改修方法等を議論し、改修計画を作り、工事費等も算定する。(「調査報告・維持改修  計画書」の作成)
③ 町および関係機関に「調査報告・維持改修計画書」を提出し、早急の保全を要望する。
(2~3年以内の保全工事が必要と考えています。)
④ 機関庫まつりで報告会を開催(参加者から整備計画案、夢を発表する会を開催する。)
⑤ 機関庫の活用について議論を行っていく。(5年を目途に結論を出したい。)
⑥  インターネットを使った募金運動
⑦  豊後森機関庫グッズを造り、道の駅等で販売
などを考えています。

【住民主体の保存運動がもたらしたもの】

玖珠町とりわけ豊後森町は国鉄久大線の機関区の発展と共に生まれ繁栄し、そして機関区の衰退と共に町の活力が失われて来た、まさに一体であると言っても過言ではない町です。

 

そのため、豊後森機関庫が解体の危機に直面したときに地元有志が中心となり保存運動を行いましたが、それは単に貴重な遺産ということだけではなく、ここで働き、遊びあるいはこの建物に感動した体験をそれぞれが持ち「豊後森機関庫の解体」に対して、自分の身を切られる思いからわき上がってきた運動です。

 

そしていま、周辺商店街や地元自治会ではむかしのにぎわいを取り戻そうと「豊後森機関庫」を核としたまちづくりに懸命に取り組んでおり、保存運動はそのきっかけとなっています。また、保存運動のリーダーである建築家の尾方氏は「豊後森機関庫の保存運動は単に建物の保存だけではなく『玖珠町のシンボル』を創り、子供たちに守り残したい。そして、玖珠町を愛するこころを育てていきたいとの思いが込められている。また、これまでの運動でおおくの方から応援を頂き、行政や大企業を動かすなど町民に勇気と誇りをもたらした。」と語っています。

 

保存委員会では「豊後森機関庫」に新たな命が吹き込まれるまでが「保存運動」であると考えており、この運動をさらに前進させ、広く多くの方を巻き込んだ運動として展開していき、玖珠町の活性化につなげていきたいと考えています。

【住民主体の運動への行政のかかわり】
この保存運動は民間主体で進められた来ましたが、私は建築士会員、保存委員会メンバーであり、さらに県と言う行政の立場でもこの保存運動に関わっています。このかかわりのなかで私が感じたことを最後に3点記載させて頂きます。

 

まず一点目ですが、民間が担える部分、民間の素晴らしい点です。
①専門技術やノウハウが活用できる
②法や制度に縛られない発想やユニークなアイデアが出てきやすい
③地元に根付いた人的ネットワークが活用できる
④地域を愛し、良くしたいと思う熱い情熱を持っている
などだと思います。

 

つぎに、行政が担える部分・行政に期待されている部分は
①活動に正当性や信頼性を付ける(他者への呼びかけや説得がしやすくなる。)
②マスコミへのアピール度が大きい
③幅広い業種や人材・情報のネットワークの活用がはかれる
④補助事業や助成金の活用や情報提供
などであろうかと思います。

 

そして、一番強く感じたのは熱い情熱を持った「強力なリーダー」が必要だと言うことです。既存組織のない新たな民間主体の活動においては「強力なリーダー」は絶対です。この豊後森機関庫保存運動も河野氏、尾方氏、野村氏などの「強力なリーダー」の存在なくしては有り得ません。しかし、これがまた一番難しい問題でもあり、住民主体の運動の正否を左右する鍵でもあります。私はこの問題の解決策の一つに行政の役割があると思います。「志あるリーダー」を行政がバックアップすることにより「強力なリーダー」に位置づけることができます。

 

豊後森機関庫の保存運動はまだ道半ばであり、最終目的にたどり着くためには、これまで以上の膨大なエネルギーと経費、そして継続が必要になります。まさに、保存運動は住民パワーと行政が連携し、お互いの機能を発揮して、保存・活用に向けて進んで行かなければ目的の達成はできません。

 

保存委員会には次につづく「志あるリーダー」がたくさんいます。豊後森機関庫の所有者である玖珠町にもう少しの積極的な取り組みとバックアップを期待し、もっと広く住民パワーを結集し、機関庫の保存運度を継続していきたいと思います。

このレポートが地域住民と行政が連携したまちづくり・地域活性化の一助となれば幸いです。

豊後森機関庫
豊後森機関庫キャラクター「コッキーちゃん」

 



豊後森機関庫写真集

豊後森機関庫 豊後森機関庫 豊後森機関庫

豊後森機関庫 豊後森機関庫 豊後森機関庫

豊後森機関庫 豊後森機関庫 豊後森機関庫

豊後森機関庫 豊後森機関庫 豊後森機関庫

撮影2009.6.15月曜日


豊後森機関庫の現地調査

 

平成21年6月15日(月) 13:30~16:30頃迄豊後森機関庫の現地調査を行います。

調査場所

調査内容

参加団体

 

調査目的

豊後森機関庫は昭和9年に建設され、全国でも数少ない現存する扇形機関庫である。しかし、築75年が経過し老朽化が進み、特に近年は使用されず放置されていたために、劣化が著しく進行している。平成13年に地元有志を中心に保存運動が起こり、それを契機に所有がJR九州から玖珠町に移った。さらに、今年2月には近代産業遺産に選定された。

 

このことにより、解体の危機は遠のいたものの、活用計画や整備計画はこれからといった状況である。そのため、当分の間はこれまでと同様に放置され、さらに劣化が進行していくことに変わりはない。したがって、利活用の議論はこれからとしても、まず、劣化の進行を止め、現状の維持を図ることが急務であると考える。

 

そこで、豊後森機関庫保存委員会と建築士会玖珠支部では雨漏りの防止方法、外壁の劣化防止方法およびその費用等を検討するため、建築物の改修の専門団体の協力を得て、現地調査を行う。

 

玖珠土木事務所の関わりとして。

玖珠土木事務所では本年度の重点課題として「地域づくりと調和した玖珠川の整備促進」を揚げています。

を整備方針として取り組んでいる。そのなかで、玖珠川の沿線に存在する「豊後森機関庫」は活用を図るべき最も重要な資源・施設の一つであると考えている。

 

そこで計画策定の基礎的な資料収集のため、地元街づくり団体に協賛して現地調査を行う。

豊後森駅機関庫現地調査の連絡先

玖珠土木事務所 総務課建築住宅班 ℡:0973-72-1152

 

この現地調査(防水調査等)の報告書は、豊後森機関庫に関心ある多くの方々のためにも公開する予定です。

 

 

 


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参考サイト:

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「月夜に映るいにしえの時」  写真提供 日田市 野村氏


写真 佐藤公宣氏 森駅通り 庄屋



時代(とき)の移ろい 豊後森機関庫保存会

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豊後森機関庫の歴史

 

●昭和9年5月8日(1934年)熊本建設省より森駅に正式工事認可おりる。 5月より工事着工にかかる。

●昭和9年9月6日(1934年)久大線工事は順調に進み、11月には全線開通予定で、最後の区間日田、天瀬間の工事が行われ、久大線の心臓部、機関庫も順調に工事進展、保線区事務所、官舎30棟、電気、電話、給水等の附属工事もあり、昼夜を問わずすすめられた。

●昭和9年11月15日(1934年)久大線、最後の区間日田~天瀬間が開通、これにより久留米・日田間の久大西線が全線開通

●昭和9年11月17日(1934年)久大線全線開通 森機関庫の落成を祝う。

●昭和20年(1945年)米軍艦載機からの機銃掃射による攻撃で「機関区」にも被害が及ぶ。現在もその痕跡を見ることが出来る。当時国鉄職員2名がその攻撃の犠牲となる。 ※玖珠町で最初の航空写真は、米軍によって撮影されたものだと言う。その写真には、皮肉にも機関庫が写されていた。

●昭和29年3月15日(1954年)豊後森機関区は隆盛を極め、配備車は25両、職員は217人が勤務していた。

●昭和45年(1971年)蒸気機関車は廃止され、新しくディーゼル車が導入さる。無煙化で同時に旧豊後森駅機関区に幕は下ろされる。

●昭和59年11月4日豊後森機関区開設50周年記念式典開催。国鉄合理化で同機関区の乗務員は66人。廃止された機関庫には宮原線を最初に走った「キハ07形式」1両が保管されていた。現在キハ07形は大分鉄道管理局が保有。

 

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機関庫保存は町活性化の起爆剤  by morisong


我が国は元々伝統を重んじる国だった。勿論その背景には切っても切り離せない神仏が存在するが、それだけではない。

森羅万象、つまり自然から学んだ東洋思想は全て「無」から始まる。一切の雑念を捨て心を「無」にして自然界を読む。そこに見えるのは、純粋な自然界の法則でありそれを写す我が心である。例えば風が吹く、そして花びらが揺れる。この何でもない事実の中にこそ全ての真実がある。

花自体には何の変化がなくとも、風とか光とか周りの環境により、花は変わる。しかし本質は何も変わらない。ものを見るには、常日頃、周りの環境に惑わされることなく「花」そのものを見ることだ。

明治維新以降我が国は、西洋の空気で充満した。特に第二次世界大戦以降は急速な進歩を遂げ、それに伴いありとあらゆるモノで氾濫する世と化した。私たちは今その真っ直中にいる。ほしいモノは金さえ出せばほ手に入る時代だ。そんな中で私たちは、「心」を失った。大量生産、大量販売で、どこにでも同じモノが溢れている。当然価格も安い。

そこから人間は、何でもかんでも使い捨てという安易な行為を繰り返し、ついにそれが慢性化した。モノが氾濫するが故に、人間にとって一番大事なモノは何かという問いに、答えさえ出せないでいる。最近の三面記事に載る事件は、人を人と思わない事件があまりにも多すぎる。モノも心も同じ尺度で測り始めた人間達の縮図がそこにある。そう思うのは私だけだろうか。

こんな時代だからこそ、人間はしっかりとした「目」とそれを感じる「心」を、持つべきである。周囲の環境に騙されることなく、そこに咲く「花」の本質を見極めることである。

玖珠町豊後森に佇む機関庫は、自然界のものではない。人間が作り出した20世紀の遺物である。石造りならともかく、それも鉄筋入りのコンクリート造りで、物質自体には何の価値もない。しかし機関庫には70年の歴史がある。

玖珠経済を支え、ここで働く人々は、汽笛の中でススにまみれながら汗をかき活気に満ちていた真実がある。終戦直前の夏には、ここで働く2人の方が天から降いだ鉛の弾に倒れ、悲しみに包まれた時もある。戦後は久大線を影で支えた立役者でもある。しかし無煙化の波には逆らえず昭和40年代には終焉を迎えた。その後保護されることもなく30年が経過した。

機関庫は自然界のモノではないが、私は彼が、いや蒸気機関車たちの母親的存在であった機関庫が、今こそ人の手によって保護されるべきと考える。

周囲では、科学の発達、産業経済の発展で高度成長の風が吹いている。その「風」に騙されてはいけない。地元民は特にしっかりと「機関庫」の本質を見つめてほしい。本質を見極めることこそ文化である。これも物質文明がもたらした結果なのか、文化は金にならぬとどなたかが言っておられたが、そうではない。そうやって金にならぬ、ならないで物事を計るからこそ金にならぬだけの話だ。そのようなことはあとからおまけで付いてくると考えるべきで、目的にしてはいけない。

子ども達はそんな大人の背中を見て育つ。この辺で悪循環を断つくらいの覚悟で一度やってほしい。それが真の意味でどこにも負けない、まねの出来ない町づくり、町おこしにつながる。今からのまちづくりは、ただ目新しいものをつくればいいのだろうか。自分たちの町に眠る財産となるモノを、自分たちの「目」で見つめ直し、再発見することこそ肝要だ。

バブルの崩壊の煽りかは定かでないが、20代の若い人たちが古いモノに興味を持ち始めている。全国的に見られる現象だ。古い木造家屋を借りて、補修しながら色々なお店づくりに挑戦している。これは若い人達が、物質文明の飽和状態から開放されたいと心のどこかで願っているのかもしれない。

そんな時代の流れの中で、機関庫保存運動も生まれるべくして生まれたのかもしれない。玖珠町にとって価値のある運動である。いまこそ玖珠全町民が力を合わせて応援しようではないか。この運動がもしかしたらあらゆる意味で玖珠町を救うかもしれない。

※なおこのメッセージは2002年11月、豊後森機関庫物語上映会を前にして地元玖珠へおくったもの。


写真撮影 morisong
時代の移ろいhttp://morisong02.exblog.jp/】



峠越えのC58蒸気機関車

そのころ豊後森の機関庫にはいろんな形式の蒸気機関車がいたが、中でも最もポピュラーなのは大きな動輪が三つある九五〇馬力のテンダー機関車C58だった。私はこのC58の絵を描くのが得意だったから、よく機関庫周辺にC58を観察しに行った。

大きな除煙板(デフレクター)を持ったC58機関車は、久大線のような山間部を走るのに適した比較的軽量の蒸気機関車で、きっと久大線は線路の強度からこのクラスの機関車を受け入れるのがやっとだったのだろう。実際、日豊線などではもっと大型で重量感のあるC55やC57、C59などが走っていた。

豊後森の機関庫は最近では相当痛んでしまったが、もう全国でも珍しくなった半円形の車庫の建物が今でもそっくり残っており、かつて蒸気機関車の全盛期には機関車の向きを変える転車台(ターンテーブル)が蒸気機関車を乗せて一日中忙しくぐるぐる回っていた。小さいながらも貨車の操車場にもなっていた森駅構内では、貨車の入れ換え作業も盛んに行われていたが、そのほかにここでは機関士、機関助手の教育・訓練も行われていたから、そうした実地訓練にも機関車が動いていたのだろう。

一度、学校から社会科の時間に機関庫見学に連れて行かれたことがある。私たちは木造の建物の二階に上がって、区長さんから踏切りを渡るときの注意や機関車のブレーキの話、機関士や機関助手の苦労話しなどを間いた後、十人づつに別れて8620型機関車の運転台に乗せてもらった。運転台は予想していたよりもずっと広く、子供たちが十人入ってもまだ余裕があるくらいで、機関助手が石炭をほうり込むため罐口をあけると石炭が真っ赤に燃えているのが見えて、後ろに下がっても顔がほてるくらい熱かった。

実際の機関車に乗ってみて意外に思ったのは炭水車(テンダー)の構造である。地上から走っている機関車をみると、後ろの炭水車にはよく石炭が山盛りになっているので、炭水車の箱の中は石炭がぎっしり詰まっているのかと想像していたが、実際は炭水車のほとんどは水を入れるタンクになっており、石炭はその水タンクの上の浅い鉄床の上に申し訳程度に積まれているだけである。だから大量の石炭を搭載するには山盛りにするよりないのである。

機関士は私たちを乗せたままゆっくり機関車を動かしてみせ、入れ替え線の転轍器まで行ってまたバックした。私たちは、高い運転台に乗り込むために用意してくれた踏み台から乗り込んだのだが、前もって区長さんから、機関車を定められた位置にビックリ停車させるのが如何にむずかしいかを聞かされたばかりだったので、その機関士が最後に機関車をゆっくりバックさせて、踏み台にぴったり着けたのには感心した。

機関区の木造二階建ての大きな建物の中では、罐の焚口に石炭をいかに早く、いかに燃えやすく上手に投げ入れるかを訓練する実物そっくりの施設があって、幾人もの機関助手がストップ・ウオッチを手にした教官の見守る前で真剣に石炭くべを訓練していた。

久大線の野矢と由布院の間の「水分峠」の急坂を登るときなど、C58機関車の機関助手は一分間に三〇杯もの石炭を投入しなければならないそうだが、そんな急勾配区間を抱えた久大線ゆえに、ここでは常にそうした上手な石炭くべの研究と練習が行われていたのである。機関助手は、決められた時間内に決められた回数だけ、石炭が一か所に固まらないように、右手にもったシヤベルで後ろの石炭を掬うと、スナップをきかせるように焚□から罐の中に石炭を均等にばら撒くように投入する。これを延々とやるのだから機関助手は大変な重労働である。

昔は、機関士と機関助手とは完全な上下関係であったからあまり問題もなく、機関助手は機関士のいう通りに働いたが、戦争に負けてからはそのような不合理は通らなくなって、機関士と機関助手との関係はかなり複雑になっていたらしい。

稗田のおじさんがまだ鉄道にいた頃聞いた話だが、久大線で一度、機関士と機関助手とが走行中に石炭の燃やし方で口論し、その揚げ句に喧嘩をして機関助手が機関車を降りてしまったことがあったそうだ。

その機関助手は、蒸気機関車が間もなく急坂にかかるので、それに備えて燃焼効果が一番出るように焚口の中に石炭の山を作るようにくべていた。ところが、相棒の機関士の運転が下手だったのか乱暴だったのか、急加速して動輪を空転させたりするので何回やってもその山が激しい振動で崩れてしまう。C58という機関車は軽量なので坂道などでは空転しやすかったそうだ。

たまりかねた彼は機関士にそれを咎めたのだったが、もともと自分の方が機関助手より立場が上だと思っている機関士には助手の言うことなど端から関くつもりがなく、「つべこべ文句を言わずにしっかり焚け!」とかなんとか言ったらしい。それで怒った機関助手は「お前のような運転の下手くそなやつと一緒に乗務するのは真っ平だ! 俺の焚き方が気に入らんのならお前が石炭くべもやったらいいだろう!」と言って機関士の頭を一つ殴り、さっさと機関車を降りてしまったというのである。

いくら機関士が威張ってみても、石炭をくべる機関助手に逃げられてしまっては一人で機関車を走らせることはできない。とうとうその列車は立ち往生してしまい、喧嘩したことが公になってたいへんな騒ぎとなってしまった。結局、駆けつけた駅員らのとりなしでその機関士が助手に謝ったので、機関助手も機嫌を直してどうにかその場はうまく治まり、列車は遅延しながらも終点まで運転されたが、それ以降は、昔に比べると機関助手がずいぶん威張るようになって、機関士稼業も昔のように楽ではなくなったと言っていた。

一人で運転できる電車や電気機関車では考えられない、蒸気機関車の時代ならではの逸話である。

著者 帆足孝治 (こども豊後風土記より抜粋)



玖珠豊後森のC58351と大岩扇山と小岩扇山
デッサン画 帆足孝治氏




写真撮影 帆足孝治氏


三島公園にある『クロちゃん~C11270』


現在、蒸気機関車C11270は、玖珠郡玖珠町森町にある三島公園の旧玖珠郡役場跡地の高台で、子供たちを相手に静かに余生を過ごしています。

 



玖珠町の(有)敷津工務店さん施工で綺麗に修繕及び防サビ工事を終えた三島公園に置かれている『クロちゃん』の写真
撮影2009-4-15
修繕防サビ工事前のクロちゃん
【玖珠新聞】蒸気機関車クロちゃん化粧直し 【朝刊】-04/15
関連写真をクロちゃんの記事に載せています。
C11270の後ろには、天然記念物指定を受けている『大岩扇山』の紅葉した姿を見ることができました。
活躍していたC11270の写真は、内恵克彦氏から提供されたものです。





保護工事前のクロちゃん


写真撮影 kuwano 09-03-23