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文武両道に秀でた8代目通嘉(みちひろ)公は、築城が許されなかったため「末廣神社」改修の際に城郭(じょうかく)的スケールの山門や茶室を建 設しました。日光東照宮の陽明門を模した「清水御門」、神殿が二重の屋根で覆われた全国でも珍しい鞘(さや)堂の「末廣神社」や2階建て茶室「栖鳳楼(せ いほうろう)」(共に県指定有形文化財)など、約20年の歳月と巨費を投じた名園です。
春は桜が咲き誇り、秋は紅葉が彩る。城を夢みた殿様の思いに、じんとしみます。


パノラマ風景写真で観光する大分県玖珠町


参考サイト
森陣屋町(もりじんやまち) - 城のない城下町 - 大分歴史事典

森陣屋 - Wikipedia



"城が欲しい"八代通嘉公

桜の花に埋まった三島公園は、玖珠町のほとんどの人が集まってきたようなにぎわいを今年も見せた。江戸時代の花見の宴もこのようであったのだろうか。

町の北側にそびえる角埋山(臥牛山)のふもとの三島公園内に、久留島の陣屋はあった。二豊(豊前・豊後)諸藩の中で、唯一の無城藩のため、久留島氏は館 (やかた)をこの地に構えた。八代藩主通嘉公は気宇壮大な社交家で、諸大名に人気が高かった。城を持ちたくても持つことが出来ず、文政年間に「一族の氏神 である伊予の大三島神社の分霊を、奉安する」と称して、この高台に十年あまりの年月と、歴代の藩主が備蓄した財を使って、白に転用出来る工事をした。

初代森町町長の江藤孝本(こうほん)氏は、古老からの聞き書きを『郷土と孝本』に次のように記している。

設 計は日光東照宮を参考にして、西に清水御門を配し、西のお長坂の入り口は丸木御門。五社殿(五つの神社を合祀したもの)と栖鳳楼(茶室)との間に網代門 を、坂の上門は五社殿の直後に、坂下門は東お長坂入口にあった。また、北の牛の首(地名)にも御門があった。紅葉のお茶屋は栖鳳楼(せいほうろう)のこと で、清水の御茶屋は、清水・丸木両御門の間にあった。

くぬ木(地名)の番所を、五社殿上の石垣の先端に置き、常に門番が見張り、何事かあると、鐘楼の半鐘を鳴らしていた。その後、松山(地名)の地に鐘撞堂を作ろうとしたが、十万石以上の大名でなくては許されないので、警鐘を鳴らすというで願い出た。
南側桜の馬場の石垣は、公儀の目をはばかるため、赤土と芝で隠し、東西のお長坂は桜の馬場を中継として、何か事が起これば、盛り土をして騎馬で上下出来るようにした。東お長坂の途中に焔硝蔵を建て、抜け穴を準備していた。


現在、この説明を頼りに歩いてみても、栖鳳楼・清水御門・三島神社が今も残っており、当時の面影をしのぶことが出来る。清水御門前の常夜灯は文政十三年 (1830)八月に建てられたもので、全国一の大きさといわれる、最初に造った火袋は、笠石の重量に耐えられない事を恐れて再製され、元の火袋は、安楽寺 東隅の地蔵尊の祠として使用されている。
すべての工事の主任は、筑前出身の手島芳策公平。

また、館の前から三島神社にかけての傾斜地を利用して、池亭回遊式や枯山水風などの庭が築かれており、西日本短期大学の池田二郎教授は「西日本有数の貴重な文化財である」と認定した『末廣神社史』。

築庭にあたった庭師は、京都・二条城の庭師の橋本東三軒仲で、土佐出身。通嘉公が、五十石で召し抱えたという。軒仲は森で死亡し、墓は安楽寺にある。ひっそりと静まったこのあたりまで、三島公園のにぎわいが聞こえてくる。


(玖珠郡史談会編 玖珠川歴史散歩)



三島の築庭と長尾喜藤次
JR久大線豊後森駅から、中津・耶馬渓行きバスで十分余りで三島公園入口に着く。

今を去る百数十年前、文政の中頃から天保年間にかけて、豊後森藩ハ代藩主久留島通嘉は小藩故に築城の許されない事を無念に思い築城の意を秘めながら、藩ド の氏神様である三島神社の改築、社地の改造庭園の築造などの大工事を起した。社地全体の構想は藩主自ら日光山東照宮の形式を取り入れ設計し、そして中心の 庭園は京都・二条城の庭師で土佐の出身、橋本東三軒仲を招き築庭させた。

境内各所に見事な石材を配置し、県下唯一の鞘堂の神殿、工芸の粋を見せる茶室栖鳳楼,特に池辺中心にした築庭は池泉観賞式といわれる国宝級のもので、国の文化財に指定されるべき名園であると、日本庭園研究会長吉河功会長は来園の折賞めたたえている。

一万坪に及ぶ社地の改造、十年の歳月を費やし、一大城柵を偲ばせる大工事を、豪邁奔放で気宇壮大な藩主の意に副い、見事指揮監督竣エさせたのは太田村大庄屋長尾喜藤次である。

処が、この喜藤次に関して不思議な伝承が今も残されている。それはこの大工事中社地から角理山に"ぬけ穴"が作られた。それが幕府の隠密の知る処となり、 幕命を恐れた藩はこの喜藤次にすべての責任を負わせ、藩より追放した。英彦山九年そして庄内の方に流浪して消息を断つと、玖珠郡史などに書き残されてい る。

どのような史料に基づいてかのような"奇説"が伝承されてきたのだろうか。庄屋拝命後の喜藤次の経歴を追ってみる事にする。
  • 文化四年(1807)父藤兵衛の跡をついで大庄屋仮役になる。
  • 文化七年(1810)九月二十日大庄屋本役となる。
  • 文化十三年(1830)三月六日綾垣村庄屋になる。一年でまた大田村庄屋になる。
  • 天保二年(1831)正月九日末広神社御普請につき抜群の出精につき大庄屋格帯刀御免になる。
  • 天保八年(1837)二月二十五日御書付を以って其の身一代御徒上格(士分)になる。

この間の一時期太田村より離村が推測される。史料によれば三島の大工事に農民たちより怨嗟を受ける。

  • 弘化三年(1846)七月六日隠居願いが許され、且三嶋宮造営に抜群の骨折で特別の思召で裃拝領、養子盛蔵が若年故に後見仰付ける。
  • 嘉永三年(1850)十二月十二日死歿。

以上は藩政史料から抜粋要約したものである。四十年に近い庄屋役、そして何度も三島造営の功績が
藩より讃えられている。

そして士分格まで与えられ、墓石も太田村の長尾家の代々の墓地にある。
(玖珠郡史談会編 玖珠川歴史散歩)